明日は、大切な人の誕生日です。
ところで、
私の好きな先生は、行くと毎回
『今日、ここにいらしたご自分に感謝して…』
と言います。
自分に感謝するって発想は、
案外新鮮ではないですか?
例えば、誕生日のような特別な区切りの日に
『今日、ここにいる自分に感謝する』
っていうのは、どうでしょう。
ちょっと良い感じじゃないですか?
何を与えたいか
と
何が欲しいか
が
大きくずれてしまうのは
不幸だ
両者とも切実な願いを
相手に押しつけ合う
エゴでしかない
いらねぇもんはいらねぇんだよ
そんな顔しないでよ、おかあさま
あるとき、突然気付いたこと。
Xの娘のSOS。
不思議な行動、身体に表れた悲鳴。
おかしな癖。
誰もが笑い話にしていたこと。
忘れてた、そういう人達だっていうこと。
目の前に差し出されたどんなに大きな問題提起も、
見えないふりが出来る人達だって事。
そしていつの間にか、私もそれに巻き込まれてた。
一緒に笑ってた。
あるとき突然気付いて、振り返ったら
もう、何年も何年も
彼女はSOSを発し続けてた。
でも一方で、彼女は「笑いもの」になりたがってる。
誰にも、SOSに気付いて欲しくないと思ってる。
じゃ、あのSOSはどこから?
彼女の魂?
きっとそうだ。
私と同じだ。
私も、
誰にも気付いて欲しくないSOSを
ずっと発し続けていた。
『共有する感覚というのは静かなものなんだ、モリはそう思った。みんな一緒なんだと思い込むことでも、同じ行動をとることでもない。手をつなぎ合うことでもない。それは弱々しく頼りなく曖昧で今にも消えそうな光を、誰かとともに見つめることなのだ。』
(「半島を出よ」)
モリが初めて感覚を共有するという体験をしたとき。
私はこの感覚の共有ってものに飢えているのだと思う。
飢えていると言っても、ムキになってもっともっとと貪り食う餓鬼のようだ。
食っても食っても、食った気がしない。
それは一つには、モリの感じた真実に、これまでずっと気づけないで来たからだと思う。
『幸せだから笑うんじゃない。
笑っているから幸せなんだ。』
(「イブラヒムおじさんとコーランの花たち」)
そっか。
でも、難しいな。
でもでも、ここにメモっておこう。
「親になってみなきゃ、親の気持ちは解らない。」
そういうあんた達は
親になったとたんに、
子どもだった頃の気持ちを
全部何処かに忘れてきてしまったんだね。