13歳以下の子どもに対する性犯罪は、再犯率が高いという記事を読んだ。
当然の結果だと思う。
感覚的に、そのとおりだと解っていた。
彼らは、「病」だ。
あの男の名前を仮にXとしよう。
Xは、自分で自分がどうにもならなかった。
それは、子どもの私にも解った。
Xは哀しい目をしている。
でも時々蔑んだような目をすることもある。
今でも。
娘がどこか遠くに行ってしまいそうに感じられるのも、自分をなかなか肯定できないでいるのも、はじまりはそこなのかも知れない。
母を好きなることを、自分に許してみるのはどうだろう。
そこからまた、新しいステップに上がっていくことが出来るのかもしれない。
受話器を置いて、たった今静かに私の心を切り裂いていった娘を思いながらそんなことを考えた。
彼女が、私の新しい道を指し示してくれたのかも知れない。
私の身体には間違いなく母の血が流れている。
それを認めることが出来なければ、娘の身体に私の血が流れていることも信じることが出来ないだろう。
どのグループにも帰属できないから、あらゆるものに適応しようとしていつも疲れてしまう。
「うん、お母さん自分でもそう思う。お母さんは、きっとおばあちゃまに似ているんだね。だから余計、気になって腹が立ってしかたないのかもね。」
明るく話す自分に嫌悪といらだちがこみ上げる。
本当に私は、母に似ている。とくに、大嫌いな母の欠点を見事に受け継いでいる。
でも私はそれを、長年の習慣と理性の力でうまく封じ込めることが出来る。
「わかってる。そっくりだよね。」相変わらずの口調で即答する娘。やはり、娘は何もかも見抜いている、だからこの子に誤魔化しは効かない。
この子には、正直である以外どうしようもないだろうと考えながら、ありのままの自分が彼女に拒絶される恐怖に私はまたしてもすくんでしまうのだ。
このブログは、自分を好きになる練習です。
カラ元気じゃなくて、本当のパワーを。
愛想笑いじゃなくて、心からの笑顔を。
自信と落ち着きと強さと、そして優しさを。
手に入れるための練習です。
「おばあちゃまとは色々あったのかもしれないけどさ、お母さんの態度はちょっと…。」
電話の向こうの娘の言葉には、、静かだけれど怒りがこもっているのが判る。
怒りを、あえて無表情な口調で包むことで、鋭い刃物のように変える時の娘のこの話し方は私にそっくりだからだ。
母と、私と、娘。
もしも私が母に感じてきたような侮蔑の気持ちを、娘も私に感じているのだとしたら、私のこの二十年は何だったんだろう…、そう思いながら身体の力が抜けていく。
娘がまったく私と同じように、母親の無理解に寂しさを無神経さに絶望を感じてきたのなら、私は母から遠く遠く離れようと逃げ回った挙げ句、道に迷っていつしか元に戻ってきてしまっていたのだろうか。